昭和41年05月27日 夜の御理解
おかげを頂きたい為にまず、私共が大きな心にならなければならんと、豊かな心にならなければならんと、本当に小さい事が気になる。もうこの位あとから考えてこの位なことが腹が立つ。この位なことが心配になる。この位なことがイライラの元になっておる。これでは自分なおかげ受けられんなと、先ず知らにゃいかんね。大きなおかげなんかも受けられるはずがない。
それだけでも、ですからどうしても、そのおかげを受けたいんですから、私共あらゆる角度から大きな心にならせて貰う 豊かな心にならせて貰う事を願い又は、稽古をさして貰わなければいけないとね。それは生まれつき、先天的にその何ちゅうですか、楽天家というですか、いっちょん気にならんという人もある。ところがまあ、私共の様にそのおへぎがちょっと一分一厘違っとんたっちゃ、その出来ないという性格の者もあるね。ですからそれとは違うですね。
信心でいう、豊かな心、楽天的な心、もうそのぼんやりしたという人達なんかです、蚊の食いついたっちゃ気のつかんという人達があるんですよね。矢張りもう私共なんかもう、それこそそこんところは、神経が細かいそう言う事ではない信心でいうおかげを頂く大きな豊かな心というのはそうじゃない。昨日、高芝さん所の正雄さん達が久留米、こちらに寄り久留米の方へまあ一応それにまさおさんじゃなかったか、高橋さんじゃったかな、自動車、単車にこう突き当てられてから、自動車がそでた。
そして向こうの人がそうだったからお見舞いにちょっとした事じゃったけれども、まあ見舞いに行ったり、まあちょとした弁償さして頂いて、ですからこの位ですんでからおかげ頂いて有難いと言うんだけれどもね、そこんところを教祖の神様は思い替えとおっしゃるね。思い替えがでける様な事ならまだ、いいですよね。本当にもう、こん位で済んで良かったというて喜ぶけれども、うんなら心のどこかにです。
本当に金の千円もいった金の二千円もいったと心の何処かに、その本当にもういらん事使うもんじゃけんと云った様なものがあったとするならば、もうそれは思い替えにはなっとらん訳です。口では思い替えの様にあるけれども教祖の神様はそこんところを、思い替えと云う事を仰る。思い替えて行くと云う事ですねそれが(?)行く事も有難いですけれども、その思い替えようと思っても思い替えられない事がある訳ですね。
残る何かが。あん時にほんにああでなかったならばと何時までも残る様なものじゃったら、もう、それは値打ちはないですからね。そいでその私は思うんです。例えば今度秋永先生あたりのああした大きな事故にあわれた。もうそれこそ、自動車なんかもう、見るかげもないごとびっちゃげてしもうておるね。しかし、こういう時ですね、本当にもう自動車なんか、全然問題じゃないと思うでしょうが。
どうですか皆さんもう、命が助かったという事だけでもう自動車も、もうそれこそ自動車が人からちょっとぶっつけられてへこんだ時よりも惜しくないでしょう。何故って命が助かっておるこげな事問題じゃない。本当にもうさらさら問題じゃないですからそういう場合にですたいね、うんなら本当に大怪我でもしとれば、こげなこた問題じゃないと思い替えてみても、やっぱり実際にその大きな事が起きとらんとそれ、すっきりしたもんじゃないと言う所に本当のものじゃないと云う事を感じるですね。
神様に通う大きなおかげの受け物というのは、そんなもんじゃないね。そこで私は、本当にそこんところを、まあ思わして頂くんですけれどもね、私共が例えばその大きな事故のあった時に、その手前の自動車がその使いもんにならん様に壊れておると云った様な事やら問題じゃない、その為に金でも使う様な事も問題じゃないと思う様にですね、例えばだから、大きな事が一つ願いでなからなけりゃいけないと思うですね。
私共の心が豊かに大きくならして頂く為のあらゆる角度から、その稽古をしなきゃいけませんけれども、先ず私共の願いが小さいとです、もう小さい事が矢張り問題になるね。 先日熱心に信心出来るんですけれども、お母さん、別にいう所はないですたいね。所がお母さんがですね、御飯食べなさる時に猫のごと食べなさるげな、ぴちゃぴちゃ言わして食べなさる訳ですね。
もう始は辛抱しよったばってん、とってもずずこけだす、ごたるとそれば見よるとご飯の味が全然せんごとなって来ると、そりけんというて別に食べる訳にはいかんけん。もう、それがもうとにかく、毎日悩みの種である、まあ私共が聞かせて貰うとですね、そん位な事何でんなかろごとあるけれども、その人にとっては、それはやっぱり問題になってるね。私共もそれによく似た事がありゃせんだろうかとね、誰から見たら何でもない様な事が、自分にとってはもう、本当にそれが嫌で嫌で堪らんと。所がその事をその人に申したんですけれどもね。
嫌じゃろうけれどもね、それによってあんたが一つ育てられなさいと、私しゃ申しましたね。もう、嫌でたまらないその事によって、嫌な事は、嫌な事なんですけども、その嫌な事によって育てられると云う事ね。その事によって嫌で堪らんけども、その事によって自分が育てられる所の精進をさして頂くと、そこにその事によって育てられる。かげ頂かしていわゆる豊かな大きい心が、段々それによって頂かれると言う事ね。
これは私は何時も申します様にね、もうそげな臭かもんは食べんというて、にんにくを食べないという人がある。けども、さあ臭いものでも食べなければならない事がある。もう臭いこたあいやちゅうて、便所にいかんちゅう訳にはいかんもんね。あげんた臭かけん私しゃ便所にゃいかんちゅうなら、どんこんされんもん。例えば臭い事でもです、そうならねばせんならん時には、臭い物を本当に頂かして貰うと云う事。
今こそにんにくを食べよる時も、いやばってんか食べよると神様にお願いしてお縋りして食べよるとです、胃が強うなると云う様なものなんですね 本当に苦い思いをすると云う様な時でもそうなんです。誰でも苦い思いをするのは嫌なんだけれども、今こそセンプリきかせて飲ませて頂ける時と思うたら、胃腸が強うなるね。そういう頂き方をです、日々の中にさして頂く稽古をさして行きよると確かにセンプリが効いたあのニンニクが効いたと云う様に私の心の胃腸というものが、段々大きくなって来るです。
確かにそして、それが問題でなくなって来るね。いやそれが有り難うなって来るんですよ。いやそれによって育てられる事の有り難さが分って来る。私しゃ豊かな心とか、大きな心というのは、そう言うふうにして育てられて行くのではなかじゃなかろうかとそう思うですね。ために例えば苦いものが前に出されても、臭いものが前に出されてもですね、私はこういう大きな願いを持っておるのだからこの位な苦いもの、この位な臭いものは平気で頂かにゃならん。
食べる稽古をさして貰わにゃならんと云う事にも、元気な心も出ろうというもんですね。だから願いが小さいとですたい。やはり思い替え、思い替えをしてみる。けれども矢張りね。例えば一万円修繕に掛った自動車の方もですたい、もうそれがあの本当、まあ広大なおかげを頂いたね、もう怪我せじゃったけんでと、口では言いよるけんども、心の中では惜しかったと、もし、あるとするならば、それは心が大きくなったというのじゃなか。思い替えになっとらんとじゃもんね。
けども私共はです、大きな願いというのを持っておるとです、その位な事は問題じゃなくなっ来るのです。問題が細かいく細かくなっ来るんですね。秋永先生の大きな事故におうて始てですたい、自動車が言わば使いもんにならなかったと云う事は全然問題にない様にです、そういう大きな豊かな心が何時も使える為に、矢張り大きな願いというものを、持たせて頂かねばならんと。そして私はこういう、切実な願いを持っているんだから、こういう大きな願いをかけておるんだから。
この位な修行は当たり前ね、この位な事黙って受けきらん様な事じゃ私の願いは成就せんぞと言う様な気持ちですから、それをもう始から呑んで掛る気概というものがでけて来るね。それこそやって来いとね、それこそ我に七難八苦を与え給えという、その山中鹿乃助ですかね、じゃないですけれどももうこちらの方からそれをもう呑んで掛る気概というものがでけて来る。だからその事痛くもなけりゃ痒くもない。問題でもないと云う事になる訳そこに私しゃ大きなおかげは約束される大きな願いを願っておっても。
例えばそれが、切実でないものでない証拠にね、もうその事が気になっしょうがない。その事が心配になってしょうがない。それが腹が立って堪らん。それではあなたが大きな願いをしておるなら、それは切実なもんじゃない。ほんなもんじゃないと云う事ね。私共切実に本当に大きな願いを立てたならそれ以下の問題はです、全然問題じゃ無く成って来るです。不思議に、そこに私共はおかげの受けられる豊かな大きな心ちゅうのは、そういう心じゃなかろうかと私は思うですね。
どうぞ。